6月27日(土・現地時間)、ネヴァダ州ラスベガスのUFC APEXで開催された「UFC ESPN12」で、佐藤天は4度に渡る対戦相手の変更にも動じることなく、急遽出場のジェイソン・ウィットから48秒でTKO勝ちした。勝利を祝して2019年4月に「Fight&Life」誌に掲載した佐藤天選手のインタビューを全文掲載する。
「誰よりも格闘技のことを考え、真摯に向き合う」
高校2年生の時にMMAファイターになることを決意。
大学卒業後、TRIBE.TOKYO.MMAに入門した時にはUFCで勝つことが目標となっていた──佐藤天。
躓きながらも確実に力をつけた頃、UFCと日本の格闘技界は疎遠になりつつあった。RIZINの活動開始、ONEが存在感を増すなか、今は亡き友との約束もあり、佐藤のUFCへの想いは揺らぐことがなかった。そして2019年4月1日に、2017年7月の阿部大治以来、1年9カ月振りにズッファが日本人ファイターと契約、初志貫徹も大願成就ではない。佐藤の戦いがここから始まる。
取材・文・撮影_高島学
[Fight&Life Vol.72]2019年4月23日発売号掲載
──UFCとの契約、まずはおめでとうございます。
佐藤 ありがとうございます。
──今回はファイト&ライフで初インタビューということで、佐藤選手のMMAライフについて尋ねさせて
ください。そもそもMMAファイターになろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。
佐藤 本当にやると決めたのは高校2年生の時ですね。今から12年前です。小学校の頃から親の横でK-1やPRIDEを見ていましたが、高校に入ると矢地(佑介※クレイジービー所属、RIZINで活躍中)君とか同級生に格闘技が好きな人間ができました。そして柔道部に入ったのですが、6年ほど上に(中村)K太郎先輩がいたんです。2年生の時にK太郎先輩の試合を見て「俺もこれがやりたい」と思うようになりました。ファンでいるよりも、選手になるほうが喜びは何倍も違うだろうなって。その頃から周囲に格闘技の選手になると言うようになっていました。
──でも佐藤選手は大学に進学して、柔道を続けていましたよね。
佐藤 ハイ。高校の柔道部の監督が自分にとっては本当に怖い存在で。教官室に呼ばれて「お前、大学でも柔道をやるんだろう?」と言われるとノーと言えなかったんです。
──アハハハ。
佐藤 高校も付属だったので、そのまま専修大学に進学して柔道を続けていました(苦笑)。結果的に大学で柔道をやって良かったです。やっぱり力のある人間だけが残っているので、地力がつきました。大学2年になるとインハイで、そこそこ結果を残して特待で進学してきた後輩にも勝ててしまうんです。飛び抜けた存在の選手にはそうはいかないですけど、ちょっと頑張ったぐらいの選手には大学でしっかりと練習をしていると力の差を感じました。
──しっかりと練習すると、ですね。
佐藤 ハイ。やればやるだけやった人間が強くなるということを大学で柔道を続けたことで学べたんです。
──そこが佐藤選手の根底に根付いたのですね。一方でMMA選手になるにはスタートが遅れることについてどのように考えていましたか?
佐藤 早くММAの練習をしたいという気持ちはありましたけど、高校の柔道部がそれほど強くなかったので、大学の時に強い選手に触れることができて良かったと思います。真面目に練習をしていると、いつの間にか自分より強かった先輩よりも、強くなれている。それが分かったので4年間、柔道をしっかりやろうと思えました。全日本学生の団体戦に出たぐらいで良い結果は残していないですけど、自信にはなりました。
──大学の間もMMAの試合は見ていたのですか。
佐藤 前はPRIDEしか知らなかったのですが、スマホとか普及して動画が視られるようになり、UFCをチェックするようになっていました。大学の3年の時にベンソン・ヘンダーソン×フランキー・エドガーがメインのUFC JAPANがあり、ライブで見に行ったんです。
──まだ学生だったのですね……。
佐藤 留年しているので、実は何年生の時かは曖昧なんですが、次の年も観戦しました。2012年はアンソニー・ペティス×ジョー・ローゾンも組まれていて、本場の大会のようでした。アレを見てUFCで戦いたいと思うようになりましたね。動画で見て凄いなと思っていたのが、実際にライブで見るとその上をいっていたので。
──では懸命に柔道の練習をしていてもMMAファイターになるという気持ちは固かったのですね。
佐藤 格闘技をやるので就活もしませんと監督に伝えていました(笑)。練習でも、経験していないのに頭のなかでは総合を意識して4年間ずっと亀にならないようにしたり、柔術のように下から攻めたりして。オモプラッタは肩が極まるので本当は反則ですが、やっていましたね(笑)。
──「何をやっているんだ?」という声は挙がらなかったですか。
佐藤 そこそこ勝てちゃうと、寝技が上手いなっていう風になるんです。見様見真似でしたけどね。引退したら監督が髙阪剛さんの1学年下だったのでアライアンスとかにも連れて行ってもらえるようになりました。
──髙阪さんは専修大OBですね。
佐藤 ハイ。そうやって格闘技のための練習をしていたのが僕にとって就活だったんです。打撃を少しやって、ノーギのグラップリングに混ぜてもらったりしていました。投げることはできるのですが、そこから抑えても極めることは勝手が違ってできなかったです。
──それでも入門したのは長南さん率いるトライブだったのですね。
佐藤 K太郎先輩が「俺が面倒を見ることができれば良いけど、現役でそうもいかない。でもトライブには同じような体形の選手が多いので一番良いだろう」とアドバイスしてくれたんです。アライアンスでも渡辺悠太さんなどに相談させてもらって、トライブの環境が一番だと判断し髙阪先輩に報告しました。
──髙阪さんはその辺のことに注文を付ける人ではないですよね。
佐藤 ハイ。髙阪先輩は恰好良かったです。僕には「自分で判断してそう思うなら、そこで頑張れ」と言ってくださって。しかも、長南さんに自分がそんな風に言っているとか伝える必要はない。しっかりとやっていれば強くなれるからとまで言っていただけました。
──柔道時代に感じていた強くなる方法に関して、念押しまで髙阪さんはしてくれたのですね。晴れてトライブの一員になり、当時はどのようなメンバーと練習していたのですか。
佐藤 すぐにプロ練習に放り込まれてしがみついていた感じですが、白井(祐矢)さん、佐藤豪則さん、青木さんとミドル級では中西(良行)さん、坂下(裕介)さんがいました。今はトライブも中量級より重い人が少なくなってしまったんですけど、あれだけの選手が揃った環境でやらせてもらったことは大きな財産になっています。
──衝撃を受けるようなことはありましたか。
佐藤 それは毎日のように衝撃を受けていました。やっぱり投げまではできるんです。でも、その後はメチャクチャやられました(笑)。
──当時の青木選手だと投げられただけで、相当熱くなって攻め込んでくるような感じではなかったですか。
佐藤 そうですね、ただ僕も結構負けず嫌いで。後輩にはそういうことはしないのですが、先輩だったら良いだろうと青木さんに殴りかかったことも何度かありました(笑)。
──本当ですか!!
佐藤 ハイ、もう喧嘩腰で突っかかっていましたね。青木さんも試合が近づくとスイッチが入って『ONEはサッカーボールキック有りなんだよ』って蹴られて。それに腹を立てて殴りにいくと長南さんが「やり過ぎだ」って止めに入ってくれたり。でも「青木さんが、おかしいですよ」なんて言ったこともありました。
──それも凄い話ですね(笑)。
佐藤 プロ3戦目で、もう辞めてしまった鈴木JAPAN選手とVTJで戦うことが決まった日に、気合が入っていたので3本、4本と青木さんに当たりに行っていたら、関節技で間違った逃げ方をして腕が折れたことがありました(笑)。
──いやはや、何とも……です。
佐藤 青木さんに限らず、出稽古に初めて来た選手にも「一生勝てないと思わせてやろう」っていう感じで当たりに行っていましたし(笑)。
──なかなかの武闘派ですね(笑)。
佐藤 青木さんには殴りにいくと、逆にギダギダにやれるのですが、練習が終わっても「ちょっと熱くなったな」とかムスッとしていて。それを3年程繰り返していたら、可愛がってもらえるようになりました。
──青木選手から『頑張っている若いのがいるから』と佐藤選手を推す声は何度もありました。ところでファンから実際に練習し、試合で勝つようになってもUFCという目標は変わらなかったのですか。
佐藤 変わらなかったです。周りにもUFCで勝てる選手になりたいと言っていましたし。