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85年の歴史を誇るアイアンマンマガジンの歴史とは?元発行人ジョン・バリック氏が語るボディビルへの情熱

セルジオ・オリバーとの出会い

ボディビル界でシカゴと言えばセルジオ・オリバーだ。実は私は彼と同じジムでトレーニングを行った経験がある。セルジオはミスターオリンピアに2度輝いた超人であり、ボディビル界の『伝説』と称えられたボディビルダーだ。彼のトレーニングはまさに狂気に満ちていた。特に1963年、64年の頃のセルジオは凄まじかった。彼の姿は地球上にすむ『人間』とは思えなかった。
私が初めて彼と会ったのは友人のボブ・ガジャを通じてだ。場所はウェイトリフティングの大会会場で、そのとき、セルジオは観客席の最前列で、食い入るようにして選手らが行うリフティング試技を見つめていた。試合の途中で、彼は突然席を立ち、トイレへと向かった。そのときの彼は白の半袖のワイシャツを着ていたのだが、ワイシャツの袖は肩の位置からざっくりと切り込みが入っていて、その切り込みをさらに割くほどの極太の上腕があった。ただでさえその迫力に誰もが圧倒されるのに、セルジオはきらびやかなアクセサリーをたくさん付けていて、その姿は否が応でも目立っていたよ。それこそ、彼が席から立ち上がると、それまで動いていた人や物がすべて停止するほどの圧迫感があった。実際、彼の立ち上がる姿を見た試技直前のリフターまでもが、プラットフォームで凍り付いたように立ち止まったほどだ。でもセルジオはそんなことは気にしない。彼は静かに会場を後にしたんだ。その間、誰もが無言になった。みんなが動きを止めた。そして会場にいたすべての人たちがセルジオの姿を唖然とした表情で見送ったんだ。
そのときの私はまだ彼が何者であるかを知らずにいた。しかし、ボブ・ガジャが私に教えてくれた。当時、ガジャが経営していたジムでセルジオはトレーニングをしていることを知った私は、直ちにガジャのジムを訪れた。もう一度セルジオの姿を見たいと思ったからだ。いや、もう一度見ずにはいられないほど、セルジオの姿は強烈な印象となって私の脳裏に焼き付いてしまったんだ。
ガジャのジムは、とてもジムとは言えないような粗末なものだった。地下の一室に少ない器具が並べられただけの施設だった。でも、私はそのジムに入会した。セルジオがトレーニングしていると言うことだけがそこに入会した理由だった。そうしてガジャのジムでワークアウトをするようになった私は、ついにセルジオと一緒にトレーニングする機会に恵まれたんだ。当時のセルジオは体重が90kgほどあった。その彼が、恐ろしいほどの高重量を使い、しかもそんな重量のバーベルやダンベルを猛烈なスピードで上げ下ろしするんだ。靴なんか履いていない。裸足のままだ。いつも蜂蜜の入ったビンを持ち歩き、その中につぶしたピーナッツを入れて、ワークアウトの最中にでも彼はそれを食べていた。
今でもスクワット・クリーンを行うセルジオの姿は鮮明に思い出せる。重量は158.8kg。相変わらず裸足のまま、彼は黙々と、しかも猛スピードでこの種目を行っていた。いかにも理想的なボディビルダーの肉体を持ちながら、筋力は凄まじいほどに強かった。関節は膝も手首も足首も細く、ウエストだって引き締まっていた。決して骨太のごつい身体つきをしていたわけではないのに、彼の鋼のように鍛えられた筋肉からは、信じられないほどの出力が続けられていた。当時の彼は肉屋で肉詰めの作業を行う仕事に就いていた。それは自らの肉体を酷使する労働であったはずなのに、彼は仕事を終えると、必ずジムに現れて、3時間も続くトレーニングを欠かさずに行った。彼の疲れ知らずの身体に私は驚愕した。その美しいまでの筋肉に私は憧れた。当時のことを彼に訊ねたとき、彼は私にこう言ったのを思い出す。
「アーノルドがビーチで寝転んでいた頃、私は肉屋で肉の塊を抱えながら仕事をしていた。仕事をしなければ私の生計はなりたたかなかったんだ」
アーノルドとセルジオはライバルだった。しかし、ふたりはまるで違う環境でボディビルを続けていたんだ。
週に50~60時間の労働をしながら、仕事帰りに3時間のトレーニングを地下牢のようなジムで行い、ついにセルジオ・オリバーはミスターオリンピアに輝いた。とにかくセルジオの努力は凄まじかったんだ。でも、彼はそうしてボディビル界の頂点に立ち、ボディビルダーの基準を一気に高める功績を残したんだ。
こう言うと、セルジオのボディビル人生は苦痛に満ちた悲愴的なものに思われるかもしれないが、それは違う。彼はジムでいつでもジョークを飛ばしていた。いつだってジムのメンバーは彼の冗談に大笑いさせられていて、彼の周りの空気はいつだって新鮮で刺激的だった。

ボブ・ガジャという人物

元ミスターアメリカのボブ・ガジャはボディビル界に様々な影響をもたらした男だ。彼のPHA法は実に特殊だったが、今ではこのトレーニング法が様々な競技アスリートに実践されるようになった。もともと彼は専門的に運動学と化学を学び、知識も教養も高い人物だった。彼はそれをボディビルに応用した。彼のジムに行くと、私はよく彼がこう言っていたのを思い出す。
「ジムは実は実験室なんだ」と。
ジムでワークアウトを行う私たちは様々な方法を試しながら、筋肉の発達を効率よく行うための最良の方法を見いだそうとしていたわけで、確かにジムは彼の言葉通り、実験室だった。
そんな研究者としての目を持つ彼はPHA法を見いだした。PHAとはペリフェラル・ハート・アクションのことで、いわゆるサーキットトレーニングの前進になるトレーニング法だ。心肺機能を猛烈に刺激しながら全身の血流を活発にするようにトレーニングするのがPHA法なのだ。
高校生のときからボブはすべてにおいて優れていた。抜群の運動神経を持ち、筋肉も見事に発達していた。体重が82kgだった頃にスクワット・スナッチですでに127kgを持ち上げていたし、クリーン&ジャークでは158.8kg以上を扱うことができるほどの怪力の持ち主だった。
ボブが発明したPHA法を私が最初に行ったのは1970年代に入ってからだ。場所はカリフォルニアのゴールドジムで、PHA法を開始した私は、これまでで最高のフィジークを作り上げることができた。身体能力も向上した。PHA法で60セットもの運動を1時間少々で終了させることができるほどだった。私がその当時に行っていたワークアウトには有酸素運動は不要だった。と言うのも、PHA法で60セットもの運動をノンストップで行っていたためだ。もちろんウェイトを保持しながらすべての種目を次々とこなすやり方であったため、心肺機能の向上はもちろんのこと、筋肉への刺激もハンパなく与えられ、私のフィジークはみるみるうちに洗練されていった。

カリフォルニアに越してきた理由

シカゴに住んでいた私だが、12歳の時、父に連れられてカリフォルニアに旅行をしたことがあった。そのとき、サンタモニカの公園で私は目の前に広がる海を見ていた。その広さに感動した。そして、何とはなしに、再びこの場所に戻ってこようって思ったんだ。
旅行からシカゴの家にい戻った私は、以来、ことあるごとにミシガン湖に出かけた。そこで広がる湖のほとりに立ち、無限を感じさせてくれた西海岸の海を思い出した。
大学で私は土木工学を専攻していた。卒業前に、ロサンゼルス群で設立された洪水対策本部が職員を募集していて、私はそこに勤務することになった。それがきっかけとなり、私は再びカリフォルニアにやってきたんだ。でも、その時点で、私は12歳の時に決意した思いをひとつ実現させることができたわけだ。カリフォルニアに越してくる。そして、『アイアンマン』で紹介されていた数多くの写真のように、ビーチで日焼けするボディビルダーをも体験することができたってことさ。
私がカリフォルニアにそうしてやってきたのは1965年のことだ。ちょうどその頃、ジョー・ゴールドが最初のゴールドジムを完成させていた。名誉なことに、私はそのときの創立メンバーのひとりだった。もともとジョー・ゴールドは閉鎖が決まったマッスルビーチでトレーニングを行っていた仲間たちのためにゴールドジムを作る決意をし、ジムにはザボ・コスウェスキーと言ったジョーの仲間たちがいつも本気のワークアウトを行っていた。仲間がいつまでもトレーニングできる環境を作りたい、それがジョーにとってゴールドジムを作るきっかけだったため、最初から彼はジム業に携わろうとしたわけではなかった。仲間のためと言うのが常に優先されていたため、彼は何でも自分でやった。マシンの製造から、清掃に至るまで、できることは何でも自分がやってのけたんだ。
ジョーの止めどない思い入れが詰め込まれたゴールドジムでのトレーニングは最高に楽しかった。決して広くはない空間だったけど、ジムから歩いてすぐの場所に広大な太平洋が広がっていた。その無限さが私にはとてつもなく嬉しかったんだ。

ビンス・ジロンダとの出会い

カリフォルニアのスタジオシティにビンス・ジロンダのジムがあった。ゴールドジムで至福のトレーニングを続けていた私だが、ある日突然辞令が下りて、私はロサンゼルスの職場からサンフェルナンド・バリーに転属することになった。そこからゴールドジムまでは48kmもの距離があり、私は週末だけしかゴールドジムに行くことができなくなった。
ウィークデイでもトレーニングできる場所を探した私は、ビンス・ジロンダのジムを見つけたんだ。そこには大勢のチャンピオンビルダーがトレーニングを行っていて、ゴールドジムより確実に敷居が高かった。たとえばラリー・スコットやドン・ハワースら、本格的なボディビルダーが大勢真剣にワークアウトを行っていたんだ。
ビンス・ジロンダのジムでワークアウトを行うようになった私だが、結局、チャンピオンたちとは誰とも一緒にトレーニングを行わなかった。なんて言うか、うまく溶け込むことができなかったんだ。もちろん私も本気でトレーニングを行っていたし、ボディビルの大会にも出場していたが、彼らと話をすることはあっても、なぜか一度も一緒にワークアウトをすることはなかった。
そうしているうちに、ビンス・ジロンダが週末だけ私にジムの管理を任せたいと言い出したんだ。
ビンス・ジロンダはいわゆる変わり者に分類されるタイプの男で、確かに気むずかしい一面があった。でも、トレーニングや栄養については時代の最先端の知識を持っていて、それがなかなか一般には理解されがたかったんだと思う。実際、ジロンダの話は当時は雲をつかむようなことばかりだった。でも、彼のトレーニングや栄養学についての理論は、それから何年もが経過してから、少しずつ証明がされていき、真実であることが明らかにされていった。彼は未来を先取りしていたんだ。だからわかりにくい人物と見なされていたんだ。
確かにジロンダは理論派で、とことん議論をすることを好んだ。議論の中で、言葉が過ぎることもあっただろう。でも、友人に求められたらどこまでも手を差し伸べてくれる優しさも備えていた。無情に見えて、実は猛烈に面倒見のいい男だったんだ。

ジョン・バリックが出場した大会

1950年代のアメリカ西海岸では、マッスルビーチで大勢のボディビルダーが屋外でのワークアウトを楽しんでいた。フィットネス界の父と敬われたジャック・ラレインの影響を受け、多くの人々がウェイトトレーニングに夢中になっていた。その時代、私はまだシカゴにいて、そこでウェイトリフティングとボディビルの大会に出場するようになっていた。あの当時、つまりは1950年代は、ウェイトリフティングとボディビルはひとつのセットになっていて、どちらか一方だけの大会に出場するような人は誰もいなかった。もちろん、2つの競技のゴールは違っていったが、たとえば1年はウェイトリフティングの大会を目指してトレーニングしても、翌年はボディビルのためにトレーニングをするというやり方が主流だったんだ。中には1年の間に両方の競技大会に出場する人も大勢いたよ。
私が最初に行ったのはウェイトリフティングだった。プレス、スナッチ&クリーン、ジャークなどの種目をかなりやり込んで、そうしてウェイトリフティングの大会にも数多く出場した。
ボディビルが主体になるようになったのは私がカリフォルニアに越してきてからのことだ。一度はエド・コーニーと戦い、彼に勝ったこともあった。でも、そのとき私が彼に勝てたのは、彼がまだボディビルコンテストのための減量法を理解していなかったからだ。大会が終わると、エドは私にコンディション作りのための減量法について、食事法について聞いてきた。私はビンス・ジロンダに教わった低炭水化物食法を説明し、同時に定期的に炭水化物の摂取量を増やす日を設けて、炭水化物を制限する日と増量する日をサイクルにして減量を進めていくやり方を解説した。
エドの進化は猛スピードで行われた。事実、翌年、ミスターカリフォルニアの大会に出場した彼は、そこで見事な優勝を納めた。同じ大会に出場した私は4位だった。明らかにエドには素質があった。だから知識が増え、それを実践すると、たちまち私など足下にも及ばないほど、コンディションを極めて好成績を収めるようになったんだ。
彼はやがて『パンピングアイアン』の表紙モデルに採用された。彼のフィジークは撮影のしがいがあった。当時のカメラマンたちは、競うようにしてエドを撮影したものさ。
ビンス・ジロンダが私に指導してくれた食事法には秘密など何もない。理論的なやり方で、現在では多くのボディビルダーが大会前になると実践している
低炭水化物法がそれだ。基本的にはすべての食事で炭水化物の摂取を制限するが、その量は1日100g以下に定められていた。そのような食事を3日間続けたら、4日目は高炭水化物の食事を摂る。これによって枯渇した筋中グリコーゲンを一気に高めることができた。高炭水化物の日は1日に400gもの炭水化物を摂取するように指示された。ただし、高炭水化物を摂る日は4日目だけ。5日目からの3日間は再び炭水化物の摂取量を制限し、8日目に再び高炭水化物食を摂る。こうして2種類の食事をサイクルにして続けていくと、徐々に体脂肪が絞られていき、ステージに上がるにふさわしいコンディションが完成していく。
また、低炭水化物の日に摂取する炭水化物量はケトスティックスと呼ばれる試験紙を使って決定する。ケトスティックスは尿中のケトン体の量を測定するための試験紙で、ケトン体が多ければ多いほど、体脂肪の燃焼が効率よく行われていることが示された。つまり、ケトン体が少なければ体脂肪燃焼を促すためにもっと炭水化物の摂取を制限することが必要だと判断できたわけだ。

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