才能の開花
二浪して東京大学の理科Ⅱ類に進学したが、講義に出席したのは最初の1週間ほど。明けても暮れてもボディビルのことしか考えられず、トレーニング漬けの毎日だった。
1981年6月、勧められるまま出場した初めての学生ボディビルコンテストでは全く歯が立たず、あまりの悔しさに決勝審査を待たずに会場をあとにした。このコンテストを振り返って彼は後にこう語っている。
「あのときの無残な敗北があったから今がある。もし表彰台に上がっていたら、ボディビルに魅力を感じないまま去っていた」。
コンテストで惨敗した翌日から早速アルバイトを開始した。警備員や引っ越し作業、プール監視員で稼いだ金はすべて大量の卵、ツナ缶、プロテインになって消えていった。それから5ヵ月後の11月には東日本学生コンテストに出場し、8位に入賞している。ちなみに、この大会で上位に入った選手の中には、後にバイセップスマンとして人気者になる高橋重信(3位)や、抜群のプロポーションでミスター日本でも活躍することになる大河原久典(9位)がいた。
翌1982年の関東学生コンテストでは学連の部に出場し、仕上がりは甘かったが驚くほどバルクを増やして一気に3位まで順位を上げた。そして、ボディビルを本格的に開始して2年目の1983年、彼の才能は一気に開花した。もはや学生のレベルをはるかに超えた筋量で関東学生のステージに立ち、オープンの部で圧勝。胸、背、腕、腹の部分賞とモストマスキュラーも獲得した。
勢いに乗った彼はこの2ヵ月後、社会人コンテストデビュー戦となるミスター関東で、85㎏の体重を残して5位に入賞してしまう。さらに、その3週間後のミスター東京では3位に入り、日本のボディビル界に北村克己の名前が一気に広まっていった。
1984年は、7月のジャパンチャンピオンシップス(世界・アジア代表選抜)で榎本正司に敗れミドル級2位、ミスター東京でも井口吉美智に敗れて2位に終わったが、ミスター関東では念願の社会人初タイトルを獲得。ちなみに、同大会でミス関東のタイトルを獲得したのが飯島ゆりえだった。
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愛犬クロの存在
この頃、東京大学を中退し、東京医科歯科大学へ進学。もちろんこのときは医学の道に進むことに何の迷いもなかったが、後に休学し1989年に中退してしまうことになる。
東京医科歯科大を中退したのは、ボディビルを中途半端に終わらせたくなかったからだが、実はもうひとつ、医学の道を断念したくなる理由が彼にはあった。医師になる過程で動物実験は避けられず、それに対する違和感がずっと心に残っていたのだ。彼にとって動物はかけがえのない存在であり仲間だった。犬や猫はもちろん鳥や爬虫類、それこそ昆虫に至るまで、北村は生き物の命を大切にした。「いつも周りの動物たちに助けられた」と、自分が飼っていた動物たちのことを話してくれることもあった。中でも格別な存在だったのは、本誌に連載していた「ボクの履歴書」にも登場する愛犬、クロではないだろうか。
話は前後してしまうが、実は北村にも苦悩の日々があった。一時期はボディビルコンテストから遠ざかり、芸能界に入ったといっても身体を張るような仕事ばかりで、ケガをすることも多かった。人に夢を与えるどころか、それこそボロ雑巾のようになって帰宅するような毎日にひどく失望していた。自暴自棄になり連日浴びるように酒を飲んで全てを忘れようとしていた。彼はその当時のことを、ゼスチャーを交えながら「もうね、ここまで、そう首まで酒に浸かるぐらい飲んでた」と、尋常ではなかった飲酒量を思い出して苦笑していた。 そんな彼の目を覚まさせたのは、もう1ヵ月も寝たきりの年老いたクロだった。自宅の階下で、目当ての酒が見つからずに苛立っていた北村を心配したクロが、最後のメッセージを伝えに来たときのことをこう綴っている。
「自分の目を疑った。あるはずのない光景をそこに見た。階段の中腹に死力をふりしぼって一段、また一段と下りてくるクロの姿があったのだ。(中略)奇跡を目の当たりにして我に返ったボクは直感した。クロは最後の力を燃やし尽くしてボクの酒を止めに来たのだと。止めどなく涙が溢れた。その翌朝、クロはボクの腕の中で息を引き取った。誰が止めても、胃から血を吐いてもやめられなかった酒。あの日以来、ボクの飲酒癖は嘘のように止まった。クロの目が閉じて、代わりにボクの心の目が開いた」。
それから彼は、芸能活動もほどほどにして、何かしらのコンテストに目標を置くことも必要ではないかと考えるようになるのだが、そのことはもう少し後に出てくるので、ひとまず話を戻したい。